「アクティヴ・イマジネーション」
投稿日:2016年10月10日 | 最終更新日: 2020年10月10日
私は、ヘミシンクによる誘導瞑想のコツをつかむまでに、ずいぶん時間がかかりました。
想像すること、イマジネーションが大切だということはわかりました。
モンロー研究所のトレーナーからも、大事ですよというアドバイスをもらいます。
理屈では分かったつもりですが、本当に理解したとは言えませんでした。
なぜイマジネーションが大事なのか、もう一つはっきりとした理由が欲しいと思っていました。
これが一番のポイントなのですが──「自分の勝手なイメージ」でいいのか、それとも「イメージの方が勝手に現れる」のを待っていた方がいいのか──迷っていました。
そんなとき、たまたま、ほんとうに偶然、『アクティヴ・イマジネーション』という本に出会うことができました。
「え? 何? アクティヴ? イマジネーション?」──タイトルを見ただけで、ピンとくるものがありました。直感的に、これだ!と思ったのです。
早速購入しました。
『ユング派のイメージ療法 アクティヴ・イマジネーションの理論と実践』(老松克博 著 トランスビュー)
「無意識は、しばしば奇跡を起こす。」――帯に書かれているキャッチコピーを読んだだけで、ワクワクしてきました。さっそく購入しました。
【目次】
「イメージのキャッチボール」
「はじめに」には、この本の重要なポイントが書かれていました。少し長くなりますが、引用します。
アクティヴ・イマジネーションは、スイスの深層心理学者、カール・グスタフ・ユング(1875~1961年)が発展させた精神分析と心理療法のためのテクニックである。この方法では、私たちが日頃、何気なく行なっている想像という行為が持つ可能性を徹底的に追求する。・・(中略)・・ にもかかわらず、ほとんどの人は、想像がもたらすものの限界を知っている気になっている。だが、ちがう。あなたは、その途方もない可能性をまだ知らない。
ただし、何かのイメージを漠然と思い浮かべているだけでは役に立たない。イメージに対するこちら(「私」、つまり自我)からの関わり方のコツを覚える必要がある。
「コツのひとつに、無意識とのやりとりを折衝と見なすということがある。…(中略)… 自我と無意識とが、イメージという共通の言葉を介して、互いに主張すべきは主張し譲るべきは譲って折衝しようというのが、アクティヴ・イマジネーションの原理なのである。(下線芝根)
イメージにはもともと自律性があるので、自我が邪魔さえしなければ、無意識自身の意志によって勝手に動く。つまり、何かのイメージがふと浮かび上がってくるわけだ。これは無意識からのメッセージである。それに対して自我がある行動をすれば(もちろんイメージの世界で)、そこには自我の意見が反映されることになる。それから、再び無意識に自由に動いてもらう。つまり、次の場面が思い浮かぶに任せるのだが、これは先の「自我の意見」に対する無意識からの主張となっている。そこで、次には自我が……というふうに、いわばイメージのキャッチボールを行ない、一つの物語のかたちにしていくのである。(下線芝根)
こうして自我が無意識からのメッセージを読み解いて意識化していくと、無意識はたとえば神的な存在として登場するようになり、しばしば奇跡を起こす。私たちの魂は震撼させられるのだ。それは現実の世界にも波及して、癒しや救いが経験される。心理的、身体的な諸症状の消失や軽減、精神的な安らぎやある種の洞察ないしは悟りがもたらされるだろう。・・(中略)・・ 他のいくつかのコツも身につけた上で、アクティヴ・イマジネーションを半年から一年くらい続ければ、それが実感できるようになってくる。考え方や生き方はずいぶん変わっているだろう。」下線芝根)
要約すると:
①イマジネーションは「自律性」を持っており、勝手に動き始める。
②自我の「アクティヴ」な態度が最も重要である。
③イメージが共通言語であり、「イメージのキャッチボール」が、自我と無意識のコミュニケーションの始まりである。
イメージには自律性がある。勝手に動く。
それに対応してこちら(自我)が(イメージで)行動すれば、無意識も反応する。
次に自我が、その次に無意識が・・・と続ける。
これが──「イメージのキャッチボール」。
これだ!と確信しました。
誘導瞑想に必要なのは、まさに「イメージのキャッチボール」でした。
私は、自分で勝手に想像するのはよくないことだと思っていましたが、そうではない。勝手に想像していいんです! そして、相手(イメージ)の方も勝手に動く──そのことに気づいたら、次の対応を考え、行動する。
もう少し、引用を続けます。
「自分の勝手な想像でもいいのでしょうか?」という、根本的な疑問に対して、著者の老松先生は明確に答えています。
「結論から言ってしまえば、創作であっても一向に構わない。それでも充分に価値がある。自我による創作よりも、自我による創作を恐れて疑心暗鬼になってしまうことのほうが、よほど困った問題である。人間、意識内にある材料だけで物語を創作しようと思っても、とうてい続けられるものではない。そんな離れ業が可能だと信じていることこそ、自我の傲慢である。」
「ことさらに「イマジネーション」などと言うと、非常に特別なことのように聞こえるかもしれないが、それは誤解である。要するに何かが思い浮かんでくればよいのだ。まる一日、何も思い浮かべずに過ごせる人など、はたしているものだろうか。イマジネーションは私たちのごく日常的な営みなのである。」
意識的に判断し、意識的に行動する
次に、最も重要なポイント──「アクティヴ」な態度とは何か?
アクティヴ・イマジネーションで難しいのは、『イマジネーション』のほうではなく、『アクティヴ』というところである。
自我はイマジネーションの世界で、おのずと何らかの相手ないしは対象(人、動物、物、状況など)に出会う。アクティヴな自我は、まず、その出会いの意味を考えなければならない。
出会いの意味は、すぐにははっきりしないこともあるだろう。それでも、仮説を立てるくらいはしないといけない。さもないと、次にどうふるまえばよいか見当をつけることができず、イマジネーションそのものが進まないからである。
出会いの意味を仮に確定したら、次には、こちらに何ができるか、何をしなければならないか、を考えていく。・・(中略)・・ このとき大切なのは、なんとなく選ぶのではなしに、「私はこれこれの理由によりこれを選ぶ」としっかり意識しながら選択を行なうことだ。これが自我のアクティヴな態度の根幹となる。
続いて、その選択した行為をイマジネーションの中で実行に移す。(下線芝根)
常に意識的に判断し、意識的に行動することが「アクティヴ」ということです。
選択肢の中には、『今は動かない』『しばらく見守る』といった類のものがあってもよい。この種の選択も、しっかりと意識しながら行うのであれば、まちがいなくアクティヴである。…(中略)… 『アクティヴ』と『意識的』は同義と言ってもよい。
何かを『なんとなく』、あるいは『いつのまにか』してしまうことが、いちばんいけない。これはパッシブな自我に起こる典型的な経験の一つである。この時の自我は充分に機能していない。ぼんやりと映画でも眺めているような状態に陥っている。同じ『眺めている』であっても、そうしようと明確に意識しながら眺めているならかまわない。できるだけ意識を関与させることが肝要なのである。
この本を読んで、納得できました。
そして、決意しました。
①想像のブレーキを外そう! 想像することを自分に許す! 自分のイマジネーションを信頼する!
②イメージのキャッチボールをするときに大切なことは「アクティヴ」な態度。意識的に判断し、意識的に(イメージで)行動する。
観察し、気づかなければ・・・何もできない
実は、もう一点。このときにははっきりと自覚していなかったのですが、重要なポイントがありました。
それは──「観察し、気づく」ということです。
先ほどの引用に、「自我はイマジネーションの世界で、おのずと何らかの相手ないしは対象(人、動物、物、状況など)に出会う。アクティヴな自我は、まず、その出会いの意味を考えなければならない。」とあります。
「おのずと何らか相手ないしは対象に出会う」のですが、しかし──出会ったことに気づかなければ、次の行動に移せません。
キャッチボールも、相手が投げてきたボールに気づかなければ、キャッチできません。
パスボール。うしろに逸らしてしまいます。それと同じことです。
「観察し、気づく」、そして「意識的に」──まさに「マインドフルネス」です。
「誘導瞑想にはマインドフルネス瞑想で培われる観察力・自覚力が重要である」、と私は思っています。
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この本を読んで、「ブレーキを外そう、許そう、信頼しよう」と決意し、アクティヴ・イマジネーションの活用方法をマスターしようと思いました。
しかし、理解しても使えなければ意味がありません。
本当に使えるようになるには、トレーニングが必要でした。
また、アクティヴ・イマジネーションは心理療法なので、誘導瞑想に応用するには、自分なりに工夫が必要だということもわかってきました。
結局、コツがつかめたのはこのときから半年後、マスターしたと思えるようになったときには、さらに半年が経過していました。つまり、この時点からでも1年かりました。
老松先生の『アクティブ・イマジネーション』──この本に出会わなければ、私はとっくの昔にヘミシンクを諦めていたと思います。
この本に出会えたことに感謝しています。