「気づきの瞑想を生きる」

投稿日:2014年12月1日 | 最終更新日: 2020年11月13日

日本トランスパーソナル学会(私は会員です)のメールマガジンに、「2014年 11月22日 プラユキ・ナラテボー師 講演会&瞑想会を開催!」というお知らせが載っていました。
プラユキ師って誰?──まったく知りませんでした。

プラユキ・ナラテボー師

トランスパーソナル学会からのメルマガで、次のように紹介されていました。

日本人でありながら、タイにて瞑想指導者・ルアンポー・カムキアン師のもとで出家された、もちろんタイにて活躍されているお坊さんです。そしてアーノルド・ミンデルやケン・ウィルバーを読みこなし、実践的な仏教を何より自分自身と深く向き合われている方です。また、ブッダの言葉を、とにかくわかりやすく説明してくれます。

ピンときました。面白そうだ! すぐに申し込みました。

プロフィール
1962年、埼玉県生まれ 上智大学哲学科卒 タイ・スカトー寺副住職。
大学在学中よりボランティアやNGO活動に深く関わる。
大学卒業後、タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。
1988年、瞑想指導者として有名なルアンポー・カムキアン師のもとにて出家。
以後、自身の修行のかたわら、村人のために物心両面の幸せをめざす開発僧として活動。
またブッダの教えをベースにした心理療法的アプローチにも取り組み、
医師や看護師、理学療養士など医療従事者のためのリトリート(瞑想合宿)がスカトー寺で定期的に開催されている。
近年は、心や身体に問題を抱えた人や、自己を見つめたいとスカトー寺を訪れる日本人も増え、ブッダの教えをもとにしたサポートを行っている。
また日本にも毎年招かれ、各地の大学や寺院での講演、ワークショップから、有志による瞑想会まで、盛況のうちに開催されている。

出典:プラユキ・ナラテボー師 「よき縁ネット」

プラユキ師の対談が紹介されていました。抜粋します。

 ブッダのアプローチでは、問題の原因を過去にさかのぼって探っていくということはしません。まず今ここに生じていることに向き合い、あるがままに受け入れる。そのうえで、しっかりと吟味し、必要なものと不必要なものとをより分け、不必要なものは執着せずに手放していく、といった感じです。

 今は過去の集大成。ですから今を幸せに生きられるなら、おのずと過去の一切の出来事は今の幸せのための原因となります。また、未来は今の結果として生じてくるもの。したがって、今を幸せに生きられるなら、その因によっておのずと未来にも幸せが待ち受けていることになります。過ぎ去った過去や、まだ来ぬ未来に思いを馳せる必要はありません。今ここの目の前の人と、あるいは今この瞬間の自身の心との一期一会を大事にして、心安らかにマインドフルネスな状態で、苦悩の物語を紡がず、幸せに生きることを自ら選択していけばいいんですね。

 私たちはなにか辛いことが起こると、その理由や意味を求め、ときには前世に原因があるのではと思って、前世を見られるという人のところへ行ったり、あるいは、「あのときのバチが当たったのかも」と勝手にこじつけたりします。私たち人間にはこうした意味についての執着がすごくあるんですね。

 「苦」と訳されるドゥッカ(DUKKHA)は、「思うようにならないこと」が原義なんですね。したがって、苦は「不確定性」とか「不確実性」とも訳せます。そのような思うようにならない不確実なことをあるがままに受け入れ、意味にこだわることなく、ただただ今ここでできる最善なことをやっていく。そうした善き行動を続けていけば、どんどんといい方向へと変化していくのですね。(太線芝根)

【出典】中森じゅあん×プラユキ・ナラテボー対談

プラユキ師の恩師である故カムキアン師の言葉も紹介されていました。

 修行に関して誤った方向に陥らないように導くお手伝いをいたしましょう。自分自身を見つめ、感じていく瞑想のやり方をお勧めします。・・(中略)・・ 知らず知らずに考え事が起こってきますが、その考えに惑わされず、体に戻るように。体がここにあることを意識して、よく注意して観るようにしましょう。これを「パーワナー(心の成長、修養、智慧の開発)」と呼びます。パーワナーとは、気づくことに努めることで、静けさを求めるものではありません。それによって自分自身に気づくことがよくできるようになれば、迷いが少なくなり、真理が明らかになっていくでしょう。私たちは、体と心の真実を観ることができるようになるでしょう。そのものとなるのではなく、観るものとなる。体や心に何が起ころうとも明確にそれを知る者になりましょう。ときに幸せが起こってもそれを追う人とならず、幸せをただ感じる人となる。苦しみが起こってきても、苦しんでしまう人とならずに苦しみを観る人になるようにしましょう。(太線芝根)

【出典】『「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方』カンポン・トーンブンタム(佼成出版社)

実体験を通して気づき、学ぶ

「今が幸せであれば、過去も未来も幸せである」、「そのものになるのではなく、観るものとなる」──私は、ハッと目が覚めました。心が洗われるようでした。その通りだと思いました。

私事ですが、2014年9月に私の母が亡くなりました。84歳でした。
私は東京に住んでいるので、母は一人で田舎暮らしでした。
父が亡くなったのは52歳でしたから、30年以上、彼女は一人で生活していました。
ときどき寂しがってはいましたが、華道教師をしたり家庭菜園をしたりして、楽しく自由に生きていました。
数年前に手術をした後、徐々に弱ってきていました。
亡くなる半年前に再手術をし、そこからは私の妻と妹が交代で看護していました。

葬儀を終え、初七日を過ぎた後、空き家になる実家の片付けや、相続手続き、四十九日の準備などを行いながら、普段の生活に戻りました。稼業の仕事も普段通り。さらに『ヘミシンク完全ガイドブック(合本・永久保存版)』という本を編集していました。

しかし、何か歯車が狂っているような気がして、居心地の悪さを感じていました。
今まで通りだと思っているのですが、いつもの自分ではないような、どこかギクシャクしている感じ・・・。何か違和感があるような感じ・・・。

──プラユキ師の言葉に出会ったのは、そのようなタイミングでした。
そこで──ハッと気づいたのです。

私は無意識のうちに、子供の頃からの母の記憶や、故郷で生活していたころ(高校1年生まで)の記憶、古くなった実家での思い出など、過去の記憶を無意識のうちにリフレインしていたのです。
亡くなる前に母と交わした会話を繰り返し思い出したりしていました。
これから実家やお墓、田畑などを整理することになります。
そのときに、親戚や近所の人たちにどのように説明し、今後どのように関係を続けていくか・・・などなど、あれこれと繰り返し考え続けていました。
罪悪感、後悔、後ろめたさ・・・というか、これでよかったのかなあ、という不安感。

つまり──私の心は、「今ここ」になかったのです。過去と未来に囚われていました。
マインドフルではなかった。そのことに、気づきました。

気づくためのトレーニングは、ヘミシンクやヨーガを通して、ずっとやってきたはずです。
それなのに、現実を目の前にしたら、すっかり忘れていました。反省です。
──現実の、実体験を通して気づき、学ぶことに勝るものはありません。

ヘミシンクのエクササイズをやっているときだけとか、ヨーガのレッスンをやっているときだけではなく、日常生活のすべてを通して気づきを忘れないように心がけなければならない。
そのための心のトレーニングを続けよう、と改めて決意しました。

これ以降、プラユキ師の講演会や瞑想会に何度か参加しました。
そのほか、テーラワーダ仏教ヴィパッサナー瞑想マインドフルネス関連の書籍を読んだり、講演会やセミナーに出席してきました。

テーラワーダとは、パーリ語で「長老の(thera)教え(vaada)」といい、ブッダの教えと修行をそのまま伝えている伝統的な仏教で、上座部仏教とも呼ばれています(かつては小乗仏教と言われていました)。

大乗仏教は、ブッダ入滅の数百年後に勃興した新興の仏教で、紀元後2世紀中頃に龍樹(ナーガールジュナ)らによって理論付けされたとされています。
大乗仏教は北インドから東アジアに伝えられましたが(北伝仏教)、テーラワーダ仏教は南インドから東南アジア中心に伝えられ(南伝仏教)、現在ではスリランカ、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアなどで多数宗教になっています。
欧米にも数多くの寺院や団体があり、日本にも幾つかの団体があります。スリランカ出身のアルボムッレ・スマナサーラ長老が指導する日本テーラワーダ仏教協会が有名です。

ヴィパッサナー瞑想は、テーラワーダ仏教に引き継がれてきたブッダの修行法であり、そこからマインドフルネスが生まれてきた、という経緯です。
学生時代に仏教修行をかじったこともあり、テーラワーダ仏教について一通りのことは知っていましたが、改めて勉強し直しました。

手動瞑想と開放性

プラユキ師の瞑想指導で驚いたのは、東北タイを中心に行なわれている「チャルーン・サティ(気づきの開発)」という瞑想法です。
プラユキ師は現在スカトー寺の副住職をされているのですが、そこでもこの瞑想が行なわれているとのこと。
2種類あって、一つは「ヨックムー・サーンチャンワ(手動瞑想)」、もう一つは「ドゥーンチョンクロム(歩行瞑想)」。

「手動瞑想」の場合、一番の特徴は手の動きです。座った状態で、手をリズミカルに上下させるもので、14の動作を1サイクルにして、これを繰り返します。詳しくは師の著作『「気づきの瞑想」を生きる』をご覧ください。YouTubeにも動画がアップされています。動作はすぐに覚えられます。すぐに慣れます。しかし・・・

 これをただ漫然と行っていたら瞑想にはならない。それではただの手の運動である。ポイントは、手のひとつひとつの動きに自覚的にしっかりと気づき(Sati)を伴わせていくことである。これが「気づきの瞑想」と称される所以だ。また、最初はなるべくひとつひとつの動きをしっかりと区切っていく。すなわち、右手を膝の上で立てたら一瞬そこで止めて、そして気づきをもってしっかり確認。次に手を上げ、一瞬止めて、気づく。というように続けていく。このときに言葉でのラベリングは行わない。あくまでも言葉の介在なしにダイレクトにただただ気づいていく。
 そのように行っているうちに、必ずふらふらと心がさまよいはじめる。昨日会ったことを思い出したり、明日の予定について考えはじめたりする。…(中略)…「今ここに心あらず」の状態になりはじめるわけだ。それに気づいたら、まずは何はともあれ、すかさず手に気づきを向けていく。手は昨日の手でもなく、明日の手でもない。今の手だ。あちらの手でもなく、こちらの手でもない。ここの手だ。手はいつでもニュートラルな今ここのリアルな手であるがゆえに、したがって手に気づきを取り戻せられれば、同時に今ここに立ち戻れることになる。これによって心身一如の状態になれるわけだ。(太線芝根)

手の温かさなどの感覚にこだわらないようにします、と注意されます。
最初からそれらの感覚にこだわっていると、集中モードに入ってしまい、気づきではなくなってしまう。
この瞑想の場合、手はあくまでも「気づき」の力を養うためのツールであり、「集中」の対象ではないのだと。

また、「手動瞑想」「歩行瞑想」ともに、基本的には目を見開いたままで行ないます。
最初は戸惑いました。瞑想というとつい習慣で目を閉じてしまいます。
しかしこの瞑想は開放性、オープンハートを大事にするので、外的には目を開いて手足を動かすという日常生活に近い形で行なわれ、内的には気づきの空間を広げるということが重視される、とのことでした。それによって・・・

 これは瞑想実践者がしばしば陥りがちな罠、例えば感覚に集中していたら、そのうちに気持ちよくなってその静寂感の虜になってしまうことや、感覚や思考のいちいちを意識化しているうちに、次第に「感じてはいけない」「考えてはいけない」というような強迫観念に取り憑かれたり、焦燥感にかられるようになってしまうことを防ぐ意味合いもある。また身体的にも、頭痛や神経痛のような症状が生ずるのを防ぐ。

出典:『「気づきの瞑想」を生きる』

瞑想を進めていくと、誰もがさまざまな感覚や感情、思考の波に直面することになります。
そんなときでも「ありがとう」と言って、そこから学びなさいと。
そういう経験のおかげで智慧や洞察(パンニャー=般若)が育まれる。

プラユキ師の醸し出す雰囲気は、明るく、開放的で、温かです。格式張っていません。自由です。
私には、それが一番の魅力でした。
開放的というのは、タイ仏教には共通したものだそうです。
もちろん、出家されているので厳しい戒律の中で修行されていますが、それを感じさせない余裕があります。
手動瞑想や歩行瞑想も、このようなタイの風土の中から生まれてきたのでしょうか。

プラユキ・ナラテボー師 「手動瞑想」「気づきの瞑想」のポイント
出典:プラユキ・ナラテボー師 「よき縁ネット」

 

タイの仏教寺院で「心の筋トレ」
「タラレバ」思考とのおさらばを目指す記者が、米西海岸で話題のマインドフルネスと、タイの仏教寺院での瞑想修行に挑戦。タイ修行編を動画にまとめました。(朝日新聞日曜版『GLOBE』2017年4月特集「『心の筋トレ』でオレは変わるか!?」より 撮影:太田啓之記者)
出典:プラユキ・ナラテボー師 「よき縁ネット」

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