スピリチャル系ワークの落とし穴

投稿日:2005年12月1日 | 最終更新日: 2020年10月20日

トランスパーソナルやスピリチャル系のエクササイズにはさまざまな種類があります。
新旧のエクササイズ全てにおいて、実践にあたって注意したいことがあります。
自戒も含めて、整理してみました。

現実逃避に陥らないこと

トランスパーソナルやスピリチュアルなエクササイズに傾倒している人の中には、ときとして現実からの逃避に陥っている場合があります。

家庭生活や職場などの社会生活を無視して、あるいは犠牲にしてエクササイズに夢中になってしまう・・・。
経済的にも負担を強いられる・・・。
常に何かのセミナーやセッション、プログラムに参加していないと不安でたまらない・・・。
いつも焦燥感に駆られている・・・。

しかも、困ったことに、「逃げている」ということに本人はまったく気づいていない・・・。

「逃げている」と指摘すると。
「そんなことはない」と反論します。

私たちは、この世の現実生活を生きているわけですから、ここから逃げ出すわけにはいきません。

この世に生まれてきたのは、何らかの必然があってのことだと思います。
この世のことは、この世で解決しなければなりません。
あの世に逃げては何も解決しません。

「守破離」~他力と自力のバランス

エクササイズは方法論であり、手段にしか過ぎません。
自転車の補助輪のようなものです。運転するのは本人です。

エクササイズを信用することは必要なことですが、「とにかくエクササイズをやっていれば何とかなる」ということは、ありえません。

「聞き流すだけで、いつの間にか英語がペラペラになる」などという宣伝文句に騙されて、いったいいくら英語教材にお金をつぎ込んできたことか・・・(私の話です。とほほ)。

トレーナーや指導者を信頼することは必要なことですが、「あの人の言うとおりにしていれば何とかなる」ということでは、目的は達成できません。

「三歩下がって師の影を踏まず」ということわざの本当の意味は、「師と同じになってはならない。師とは常に適度な距離を保っておけ」ということだそうです。

エクササイズの助けを借りながらも、トレーナーのアドバイスに素直に耳を傾けながらも、自分自身の努力と根気、創意工夫で進んでいく必要があります。

他力だけではダメです。自力と他力の両方が重要です。

『守破離(しゅはり)』というのは、世阿弥の『風姿花伝』にある言葉で、指導者から何かを学び始めてから、ひとり立ちしていくまでに人は、『守・破・離』という順に段階を進んでいく--という考え方です。

『守』-- 最初の段階は、指導者の教えを忠実に守っていく。
指導者の言動をできるだけ見習って真似て、その価値観や方法論を身体化し自分のものにしていく。すべてを習得できたと実感したり、指導者が「自分で考えろ」と助言することが多くなったら、次の段階です。

『破』-- 次の段階では、指導者の教えを破ってみる。
自分独自に工夫して、指導者の教えになかった方法を試してみる。うまくいけば、自分なりの発展を試みていきます。

『離』-- 最後の段階では、自分自身で学んだ内容を発展させる。
どの道にも必ず“型”があり、繰り返し学ぶ必要がある。型は受け継がれるが、実は少しずつ工夫が加わって次第に良いものが残されていく。型は常に変化している。変化し超えて、独自性(オリジナリティ)が創り出されていく。

健全なる自我の確立

自我や人格がしっかりしていないと、変性意識状態での体験と現実生活を折り合わせることが難しくなります。

変性意識状態では自我を超えていくことになりますが、まずは、超えることができるだけの自我を確立することが重要です。

自我がしっかりしていないと、変性意識状態になったときに、完全な睡眠状態に陥ったり(つまり寝てしまったり)、雑念に囚われてしまったり(我を忘れて何かを考えている)、ただボーッとしている、あるいは恐怖感に囚われて身動きできない、といった状態になりがちです。
潜在意識に押し込められた衝動や抑圧意識が顕在化し、感情のコントロールが効かなくなってしまう場合もあります。

また、変性意識状態から平常の意識状態に戻ってきたときに、現実生活との間に乖離が生じてしまいます。--いつまでも“行ったっきり”になってしまうのです。

地に足をつけ(グラウンディング)、自分の中心に繋がっている(センタリング)感覚を大切にする必要があります。

「健全なる自我」の “健全” の意味は、いわゆる「エゴイスト」とか「我(が)が強い」という場合の「自我」ではない、ということです。

「ワシのもんじゃ。誰にもやらん!(所有欲)」
「オレをないがしろにしやがって!(自意識過剰)」
「ねえねえ、ボクのこと注目してよ!(自己顕示欲)」、
「へん。どうせ私なんか・・・ダメに決まってる(受動的攻撃性)」
「俺の言うことを聞け!(傲慢強引)」・・・

歪んでいない、素直な「自我」。
それでいて、自分の足でスックと立っている・・・。

逆に言えば、「ワークをやりながら健全な自我を確立していく」ということかもしれません。

「自我を確立していく」ことと、「自我を越えていく」ことは、同時並行で進んでいく。

一時的な至高体験に惑わされない

トランスパーソナルやスピリチャル系ワークの目的は、さまざまな変性意識状態を通り抜けて「悟り」の状態に到達することである--と言えます。

しかし、理想的にはそうなのですが、一時的な「至高体験」や「超感覚的知覚」に惑わされ、囚われ、成長が止まったり道を踏み外したり、といった恐れもあります。

あるいは、至高体験「自慢」や超感覚「競争」に陥る場合もあります。

「見えた」とか「聞こえた」、「抜けた」「曲がった」「動いた」と言ってはいたずらに注目を集めようとしたり、「あんたはマダマダだね」「だからアンタはダメなんだ」・・・。

競争が高じると、中には嘘をつく人も出てきます。
見えていないのに「見えた」と言う。聞こえていないのに「聞こえた」という・・・。

そういう人に限ってお節介な人が多い。
頼まれもしないのに、「こうした方がいい」、「いや、ああした方がいい」と余計なアドバイスをしたり、「私が治してあげる」、「人類のために尽くしたい」・・・。

禅宗や瞑想においては、このような「何かが見えた」とか「何かが聞こえた」という状態は「魔境」といって、素通りすべきものであると認識されています。
道元禅師は「座禅中に仏の姿を見たら切って捨てろ」と言っているそうです。

至高体験や超感覚的知覚は、すばらしい出来事です。
しかし、一歩間違えば、危ないことになります。

「誰にでも一時的に起こりえること」だと思って、軽く受け流すくらいの気持ちでいた方がいいと思います。

トラウマの解消

意識と無意識の壁が薄くなり、変性意識状態になってくると、自分自身のトラウマやコンプレックス、あるいは過去世からのカルマなどが表出してくることがあります。
それによって、現実生活でトラブルが起きたり、問題が発生したりすることもあります。

覚悟しておきましょう。

しかし--ここでエクササイズをやめてはいけません。

次のステージに行くために必要なことが起きているからです。
逃げないで、きちんと対応して解決していけば、次に進むことができます。

もし解決できなければ、何度も何度も、同じ問題が起こります。
「ちくしょう! 何で俺ばかり・・・」などと思わず、
「よし!来た!」といった感じで、むしろ対応を楽しむくらいがいいと思います。

トラウマやコンプレックスは、どんなに解消したと思っても、絶対に消えません。
見えていなかったり、隠れていたりするだけです。

忘れることなどできません。
忘れようとしたために、あるいは忘れざるをえなかったために、トラウマになったのです。コンプレックスになったのです。
それは、一生涯--自分の中に存在し続けます。

ですから、忌み嫌わず、意識化して、認め、統合していくことです。
それも大切な「自己の一部」なのですから。

そうやって、さまざまな自己を知り、統合していくことが、人間としての成長、ということではないかと思います。

人間としての成長

超感覚的知覚を生まれつき、あるいは後天的に身につけている人がいます。

直感やチャネリングによって、人の隠された感情や真実を言い当てたり、
オーラを見て、または感じてヒーリングを行なうことができたり、
あるいは自分の過去世を覚えていたり、人の前世を見ることができたり・・・。
スプーン曲げのような念力やリモートビューイング、テレパシーなどのESP(超能力)・・・。

そのような、普通の知覚では知ることのできない次元にアクセスする能力や体験は、たしかにすばらしいものです。
しかし、一方では大きな危険を秘めています。

なぜなら超感覚的知覚をもつことと、人間としての成長とは無関係だからです。

そのような能力は、早く走れるとか、うまく泳げるといった、一つの能力に過ぎません。
能力自体は人間性の指標とは、まったく関係のないものです。

いずれにしても、意識の「状態(state)」と、成長の「段階(stage)」は違う、ということに注意しておかなければならない、と思います。

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